みなさんおはようございます(^◇^)

 

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きのうは親父の通夜式。  衆議院議員 中村喜四郎様に弔辞を頂き、古河市長 針谷力様にもご会葬を頂きました。

お忙しい中を、多くの方々に、ご会葬を頂きまして本当にありがとうございました。

ゆうべは、斎場で親父と朝まで。  最後の夜を一緒に過ごしました。

 

親父は、お見合いを36回も。 お見合いの相手を全て断ったそうです。

結婚してもまだ苦労をかけるだけだからって思っていたらしく。

その後、その中で何番目にお見合いした相手なのかわからないけど、その女性と結婚。  それがお袋。

 

お袋と親父は、お見合いの後、しばらくして親父が請け負った農協の出荷場の現場でたまたま逢ったそうです。

お袋は、当時は農協の事務員を。

その現場の、基礎のコンクリートを打った時、夏場だったのでコンクリを打った後の散水をお袋に頼んだらしい。

 

「おねぇちゃん悪いけど、このコンクリートが乾いた時に、その都度、水をかけてくれないかな」って。

「ただじゃなく、一日100円あげるから」って。

親父は、毎日忙しく、現場にはずっとついていられなく、あっちこっちに。

 

それがきっかけで、お袋と付き合うようになったそうです。

お袋は毎週土曜日に、農協の勤めが終わると、昼過ぎに農協でもらったパンを親父のもとに届けていたそうです。

その後、婚約を。 でも親父はまだ結婚する気がないから、婚約してから2年もほおっておいたそうです。

 

そして結婚から一年半くらいたって、私が生まれたのが、会社を創業してから5年後の事でした。

親父はその頃、毎朝暗いうちに家を出て、トラックに乗って、渡良瀬川の西にある、北川辺まで砂を取りに。

砂を、スコップで手積みで。 そして、朝メシ前にお客様の家に毎朝おろしていたそうです。

当時は、トラック1台分の砂が1500円。  作業員の一日の賃金が450円だったそうです。

 

親父は、貧しい大工の家に生まれ、親のもとで大工を。

そして努力家の親父は、一人前に成長。  それでもまだ家の生活は大変だったらしいです。

 

これでは一生、今のままの生活。 その後、親父は大工仕事をしながら通信教育で建築の勉強を。

でも親父の父親は、それに猛反対。  「大工に学は、要らない」って。

親父は、それでも大工仕事をしながら、みんながお茶を飲んでる時は、大工箱にしまってある教科書を広げ勉強。

 

昼間も、夜も、父親に反対されても、職人仲間に馬鹿にされても勉強を。

親父は、父親に怒られるから、布団の中に入っても隠れて明かりをつけて勉強していたらしいです。

 

唯一、勉強することにみかたをしてくれたのが、親父のお袋だったそうです。

親父のお袋は「いずれ、お前の為になるから、お前は勉強を続けなさい」って。

そして、そのかいがあって、通信教育で建築学科を卒業。  その後、建築士の免許を。

 

時代は、高度経済成長期。  地元では、住宅団地や工業団地をつくり始めてきた頃。

地元には、まだ建設業者はいなかったので仕事の依頼が殺到していたそうです。

昔はなんの仕事でも忙しかったから、お客さまも、事情を理解し、仕事を待ってくれていたそうです。

 

昭和のいい時代から、平成の厳しい時代までを、一気に駆け抜けた感じ。

どんな時代であっても親父は、焦らずに、落ち着いて、物事を冷静に、平等に判断していた。

 

今日は、出棺。  そして告別式。  親父と本当の別れ。

親父は亡くなっても、親父の心は、私の中にずっと生き続けます。